大地が紅く染まる。
絶望的といえる光景なのに…何故か俺は美しいと思った。
血だまりの中、立ち上がる小さな背中を守るため…俺自身も己を奮い立たせた。
足に力を入れるたび、深く切れた傷口から血があふれ出し、大きな心臓がそこにあるみたいにドクドクと脈打つのを感じる。
『あぁ…この足はもう使えない…』
心の奥ではわかっていた。
一歩だって踏み込むことはできないだろう。
それでも、守らなくちゃいけないんだ。
いつだって…最後の最後に彼女に全てを押し付けて、命を託すなんてできない。
それじゃあ、情けなさ過ぎる。
気休めだって良い…ただの自己満足だって構わない。
俺は倒れるわけには行かないんだ…足が動かないならそれでも良い。
まだ、盾になれる身体があるのだから。
「リナ…」
小さな背は振り返ることなく頷いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それは突然現れた。
暗い気配を纏って…いつもは閉じた瞳をうっすら開け、妙に勿体つけた動作で礼を取る。
食事中だった俺たちはその手を止めた。
彼女は呪文を唱え、俺は剣に手をかけた。
「…ゼロス…」
いつもと違うこと。
それは前面に出された殺気。
出現と同時に結界内に閉じ込められたのだろう…回りに他の客の姿は無い。
リナは油断することなく席を立ち俺に目で合図を送る。
『隙を見て逃げよう』そう言っていた。
俺も頷く。
これが下級魔族であるなら、ぶち倒し食事の続きをしようと思うのだが…相手はゼロスだ。
手加減や侮りはそこに無く、全力の勝負なら…勝ち目は無いに等しい。
だが、長い付き合いからそれはお見通しだったらしい。
「逃げられるとお思いですか?僕の結界はマゼンダさんのようには行きませんよ…リナさん?」
その言葉に小さく舌打ちを漏らすリナ。
素早く別の呪文を唱え始める。
俺も剣を油断無く構えた。
目の前の魔族はまだ動く気配は無いけれどそこからあふれ出す瘴気は凄まじい。
普通の人間であるならばとっくに意識を失いそうな程、濃く淀んでいる。
あちらに動く気が無い以上、こちらから攻めるのも難しく…にらみ合いだけが続く。
苛立たしげにリナが口を開いた。
「…あんたが殺気撒き散らして現れたって事は…本気なんでしょ?」
「えぇ。まぁ…」
「どうして今更?獣王の命令?」
ルークとの戦いの後…魔族の襲撃はピタリと止んでいた。
理由は分からないが…ここ数年は平和そのものだった…それを今更命を取ろうというのだから不思議に思っても仕方ない。
リナの問いに、ゼロスは微笑み唇に指を当てる。
「それは秘密です」
と、お決まりの台詞を吐いた。
何処までも人をおちょくった話し方をする奴だ。
「秘密…って、戦う方としては理由くらい知りたいんだけど?」
「理由…ですか?」
「えぇ。魔族なんだから『魔王様の敵を!!』ってのじゃないんだろうし…」
「そうですねぇ…敵討ちの精神は持ち合わせてませんね。あの方の望みだったようですし。」
会話の間も気を緩めず気配を窺う。
ゼロスの事だ、不意打ちや新手なんてものは無いだろうと思うが…
「じゃぁ…どうして?」
「…まぁ、あえて言うなら…暇つぶし、でしょうか?」
「暇つぶし…」
嫌な笑みが俺に向けられる。
何を企んでる?と短く吠えると、益々その笑みが深くなる。
「ガウリイさんは絶望の味をご存知ですか?」
「…何が言いたい?」
「目の前で、リナさんを殺されたら…貴方はどんな顔をするんでしょう?どんな味の感情を見せるのでしょうね?」
「なっ…!?」
「リナさんもですよ。目の前でガウリイさんを殺されたら…どうでしょう?」
「ゼロス…あんた…」
楽しそうに笑うそれは歌うように言った。
どちらでも構いませんから死んで見せてくださいと。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
紅く染まっていた。
大地も、空気も…彼女の白い肌も…紅く、紅く。
「リ、ナ…」
手を伸ばし触れる。
地面に伏されていた顔が微かに動き、栗色の髪の向こうに朱色が見えた。
世界も彼女も…紅い。
「がう、リ…平気?」
「あぁ…どうだろうな…足の感覚が無いんだ…」
とっくの昔に出血多量で死んでいたっておかしくない傷だ。
それなのに、魔力球が飛んでくれば彼女を庇い身体が動く。
どうやらすぐに殺す気は無いらしく、勿体つけた攻撃は断続的に降り注ぐ。
「あたしより…先に死んだら許さないから…」
「…リナが俺より先に死ぬなんて嫌だ…」
こんな状況なのに笑みがこぼれた。
彼女も同じようで不適に笑うと両手を突っ張り身体を起こす。
ふらふらと、それでも血だまりの中立ち上がり空中のゼロスを睨む姿は諦めることを知らない。
背に俺を庇うように立つと小さく呪文を唱え始めた。
「おやおや…なかなか厄介な呪文ですねぇ…」
面白そうに笑うゼロスが片手を払うような動作をすると同時に黒い飛礫が彼女を襲う。
呪文の影響で回りに壁のようなものができているけれど飛礫は容赦なくそれを突破し細い足に、腕に、肩に食い込む。
「リナっ!!」
痛みに歪む顔。
しかし呪文は中断することなく続けられる。
動かない足を引きずって地面を張った。
情けない。
また守られるだけなんだ…俺は。
「守ると約束した…」
リナは振り向かない。
歌のように流れ出る言葉は、聞き覚えがあるような無いような…だけど酷く不安になる旋律。
彼女がどこかに消えてしまうんじゃないかという不安。
「…リナ、俺が守るから、まだ立ち上がれる。戦えるから…」
「………」
「それは駄目だ…」
伸ばした手は、彼女の周りの壁に弾かれた。
火花が散る様な音がして、俺の身体は地面を転がった。
物凄いエネルギーが渦巻いている。
上空を見上げれば、真剣な顔で彼女を見下ろす魔族の姿。
「…困りましたね…まさか暴走させずに唱えてしまうなんて…」
大誤算です。と笑うそれには怯えも焦りも無い。
果てしない”虚無”というエネルギーを前にそれは静かに地に膝を付いた。
リナの姿をしたそれの声は、空気さえも振るわせた。
―――退け―――
その言葉に、頭を垂れていたゼロスが顔を上げた。
目の前の絶対的な存在を前に、滅びを受け入れようとしていたそれは拍子抜けしたように首をかしげた。
金色の魔王は語る。彼女の望みを。
そしてゆっくり俺に近づくと手をかざした。
「無に還るのは…僕ではなく…お二人だと?」
ゼロスの問いに、それは答えない。
俺は自分を包む眩い光に目を細めた。
赤い光は金色に変わり…そして全て真っ白になって何も見えなくなった。
―――何者も…手の届かぬ場所で、二人一緒に…―――
肉体という入れ物が壊される痛みは、不思議と感じなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
目をあけると夕焼けに染まる空が見えた。
少し肌寒い風にぶるりと震えながら身を起こす。
「おぉ…」
丘の上の街から見る夕日は綺麗だ。
空も、街も、その向こうの海も赤く染めている。
世界中が彼女の色。
昼寝していた屋根の上でその景色を堪能していると、下からかかる声。
「ガウリイ!!」
家の前の道路から彼女が手を振っていた。
「よぉ、リナ。部活帰りか?」
「まぁね。あんたは何やってんのよ?」
「ん?昼寝しててた」
「昼寝って…今夕方なんだけど?」
「うん、今起きたとこだから」
そんな所で寝るなんて、危ないわよと笑うが心配して言っているわけでは無さそうだ。
呆れたような口調。
「なぁ、リナ?」
「ん?」
「ちょっと上ってこないか?」
「えー嫌よ。部活で疲れてるのにー」
面倒そうに首を振るそれに、ちょっとだけだからと誘う。
夕暮れは早い。
あっという間に世界の赤は増すのだ。
「リナ、早く。時間が無い!」
「何よ時間って?」
「良いから来いって!」
手招きする俺に、小さく息をもらすと諦めた彼女は一端家の中に消える。
すぐにベランダから声がして梯子を上ってくるそれ。
落ちないように手を貸してベストポジションに座らせると指さした。
「うわ…」
すぐに漏れる感嘆の声。
夕日の赤に染まる景色。
すでに群青も混ざり始めたその色は美しいけど物悲しい。
ふと隣に目を向けると、なんともいえない表情でそれを見つめる彼女がいた。
今日最後の光に照らされた髪が金色に見えた。
「…リナ?」
不安が胸に押し寄せる。
声にならない呟きに彼女は答えない。ただ沈む日を見つめている。
そしてポツリとつぶやいた。
「綺麗だけど…なんだか怖い」
前を見つめたまま俺の手をぎゅっと握る。
微かに震えた手。
しかし次に向けられた眼差しには強さがあった。
「あたし、夕日の色より青空の方が好きだわ」
「リナ…」
「世界はみんな…青く染まれば良いのよ…」
―――ガウリイの色みたいに―――
互いに引き寄せられるように口付けて、続く言葉を奪う。
ここには俺たちを邪魔するものはいない。
誰も引き離すことなんてできない。
…もう、誰も俺たちを引き離せないんだ…
そう、誰も…
「おいコラ天然!!人の娘に何してやがる!!降りてきやがれっ!今すぐ詫びろ!切腹だ切腹!!」
例外はいた。
Fin
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