ガウリイっ!」
足元がぐらりと揺らいだ。
確かに地面だったその場所が急に断崖絶壁になったようにゆっくりと落ちていく身体。
倒れた彼に駆け寄りたいのに、あたしの身体は後ろに引っ張られる。
黒い穴に落ちる。
落ちて、堕ちて…どこに行くのか?
あぁ、ガウリイが傷ついてる。 早く戻って、治療の呪文を…早く戻って―――!!
心のどこかで、もう間に合わないのだと気が付いていたけれど。
「――――っ!?」
意味を成さない叫び声を上げあたしは飛び起きた。
荒い呼吸。 胸が痛い。 涙が頬を伝うのを感じた。
なぜなら彼は死んだ。
目の前で。助けることが出来なかった。
…あたしは黒い穴に引きずり込まれ、こうして生きている。
「っ…ぁ……」
ぽろぽろと流れるのは後悔と罪悪感。
そんな気持ちが混ざり合いもはや自分でも何がなんだか解らない。
「また、泣いてるの…?」
遠慮がちにかけられた声。
ごしごしと頬を伝う涙をこするとそちらに眼を向ける。
大好きなあの瞳があたしを見つめる。 でも、これは彼じゃない。
あたしの…ガウリイじゃない。
「なんでもないわ…」
「そんな顔してない…」
頬を撫でる手も、声もまだ幼い。
幼い…ガウリイ。
あの日…黒い穴から抜け出たあたしの目の前に彼はいた。
わけが解らず、ただ抱き縋って泣くあたしを前に、彼は困ったように頬をかいた。 でも、冷静になって考えればここはあたしの時代ではなかった。 このガウリイも、あたしのガウリイじゃない。 ここは過去。これは過去のガウリイ…。 でも、ダメだった。 傍にいたかった。 失いたくなかった。 他の誰にも…そう、この時代に生きているであろう自分自身にも渡したくないと…あの時そう思った。
「なぁ…本当に大丈夫?」
不安そうな青い瞳。 複雑な顔であたしを見上げている彼の唇を撫で…
「ガウリイ…キスして。」
そういうと、彼は身体を起こしてあたしの肩を抱き唇を寄せる。 まだどこかたどたどしいそれに笑みが漏れる。 最初に誘ったのはあたしのほう。 いきなり現れた女にそんなことを言われても困ると断り背を向ける彼に、どこまでも着いて行った。 撒こうと思えば簡単だっただろう。 でもあの時、ガウリイはそうしなかった。
そうしないでいてくれた…それほどあたしは必死な顔をしていたのだろうか?
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『なぁ…あんたいつまで付いてくる気だ?』
少し離れた場所で木に寄りかかっていた彼があたしを見る。 パチパチと焚き火に入れた木が爆ぜ、火の粉が舞う。
『そうね、いつまでかしら…』
明かりがないと落ち着かなくなったのは、この時代に来てから… 光の届かない暗闇から、何かに引きずられる感覚がいつもある。 この時代があたしを拒絶してるような…そんな感じ。 でも、だめ…今はまだ戻れない。 だって…戻ったって、ガウリイはいない…
ぽとり。
涙が落ちた。 あとは、とめどなく零れ落ちる。
『お、おい…』
ごめん。と何度も繰り返して膝を抱えた。 だって、彼を殺したのはあたし。 あたしなんか庇った所為。 流れる血、駆け寄ることすら許されず堕ちた。 そして出会った”彼”に縋ろうとしている自分が許せない。 許せないのに…抱きしめて欲しくて仕方が無い。
『大丈夫、か?』
いつの間にか、近くに膝をついた彼。 いつもいつも…どうしてこんなにも涙ばかり出てくるのだろう?
『……っ』
シャツを掴み、声を殺して泣くあたしを彼は拒絶しなかった。 でも、その手が背に回ることは無い。 強く抱きしめることは無い。 そんなの…解ってる。 解ってる…でも、求めずにはいられない。
『ガウリイ…』
顔を上げ、あたしを見下ろす瞳を見つめ返す。 頬に手を伸ばし、顔を近づける。 唇が触れそうになる…その瞬間、はっとしたように彼はあたしの肩を押し返した。
『冗談は…やめてくれ…』
顔を背ける。 炎に照らされて赤い頬。 悲しいのに、何故だろう? 少し嬉しかった。 嫌われているわけじゃないのだと…
『…なぁ』 『なに?』 『あんた…名前は?』
名前を呼んで欲しい。 本当は教えたい。 でも、頭のどこかで何かがストップをかける。
『好きなように呼んで。』
告げて、シャツから手を離した。 彼に背を向け、横になる。 おやすみ、と。
『…おやすみ…名無しのお姉さん。』
すぐ後ろで横になる気配。 置いていかないでね…と聞こえないほど小さな声で呟いた。 硬く瞳を閉じてマントを引き寄せ身体を丸める。 眠るのは怖い。 目覚めたら、いなくなってしまっているのでは?と不安が襲う。
『…心配しなくても、置いていかない。』
ぽつりと彼が呟いた。 …さっきの聞こえていた? また涙。 こんどは嬉しくて。 涙は、涸れることがないのだろうか…
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
眼を閉じれば、最初の夜の彼の顔が浮かぶ。 がちがちに緊張して、こちらが声を上げるたび『ごめん。』と連発。
まだ短い髪に指を絡めて引き寄せ、”彼”があたしにそうしたようにゆっくり時間をかけて抱き合った。
「なぁ。」
突然、真剣な声でそう呼ばれて現実に引き戻される。 どこか夢を見ているような気分だった。
「なに?」
青い瞳があたしを見つめた。 あぁ、この瞳に篭められた物をあたしは知っている。 懐かしいその色。 一番合いたい”彼”の色。
「名前…教えてくれないか。そろそろ。」
「………」
切なげに繰り返される問い。
好きなように呼んでといって名前は教えなかった。 今日もまた、曖昧に笑う。
もう。ダメだ―――
これ以上は彼と一緒にいてはいけない。 これ以上…一緒にはいられない… 伸びてきた腕があたしを絡め取り組敷いても、心はもう…決まった。
月も沈んだ深夜。 眠る彼の頬をなでる。 まだまだ気配に鈍感だ。 あたしの知っているガウリイならとっくに眼を覚ましている。 今の彼にはもっと経験が必要だ。 戦いにおいても、他の事でも。 そうでなければ、もっと早く死んでしまう。 あたしが、救う前に…命を落としてしまう。 悔しいけど、今のあたしは、ガウリイにはなんのプラスにもならない。 彼が必要なのは、数年後に出会う、この時代のあたし。 だから…お別れだ。
「ばいばい。ガウリイ。」
そっと唇に触れ、ドアに向かう。 ノブに手をかけたところで、待って。と後ろから声。 振り向くと、怒ったような泣きそうな…そんな複雑な顔の彼がいた。 ベットに身を起こしあたしを真っ直ぐに見つめる。
「行くのか?」 「えぇ。」 「何も言わずに?」 「そうよ。」 「………。」
しばらく無言の時。 先に口を開いたのは彼。
「あんたはずっと…オレじゃなくて別の誰かのことを見てたよな?」 「………。」
否定はしない。 だってあたしは、彼と彼を比べていた。 同じだけど違う。あたしだけのガウリイ。
「オレとのことは遊びだったんだな」
その言葉に「もちろん遊びよ」と答え、彼の顔を見ず部屋を出た。 結局最後まで名前は教えなかった。 もしかしたら、呼ばれるのが怖かったのかもしれない。 あの声で…”リナ”と呼ばれたら閉じ込めた悲しみが一気にあふれ出して壊れてしまう。 泣き叫んで狂ってしまう…そんな気がした。
失いたくない。 彼を救う。 そのためにあたしはあの森に向かった―――
「うっ!?」
突然現れた魔族の攻撃に吹き飛ばされるガウリイ。 大きな木に背を打ちつけ一瞬息が止まる。 茂みの向こう側では”あたし”が呪文を唱えている。
「リナ!」
彼が叫んでも、”あたし”は答えられない。 魔族の攻撃を避けながら詠唱を続けているのだ。
「リナっ!」
返事が無いことに、彼の顔色が変わる。 落ちた剣を握りなおすと、茂みの向こう側に飛び出していこうと走り出した。 でも、行ってはいけない。 ”あたし”なら大丈夫。 だから、行かせてはいけない。
「ガウリイ!」
突如、名を呼ばれ腕を捕まれて、彼が驚いたようにあたしを見た。 ほぼ同じタイミングで、茂みの向こうの”あたし”が呪文を放つ。 魔族の断末魔の叫びが聞こえた。
「…り、な?」
この森で、何年も待ったかいがあった。 にっこりと微笑む。 景色が霞んでいくのは、あたしが消えるから。 だって、未来を変えたのだ。 だからもう彼を失い過去に堕ちるあたしは存在しない。
「ねぇ、ガウリイ。」 「な、なんだ?」
まだ理解できないでいる彼の頬に手を伸ばし、
「あんたのこと…遊びなんかじゃなかったわ。」 「…え?」
それだけは訂正しておくわね。と彼に聞こえたかどうか… あたしは、消えたのだ。 未来を変えて。
「ガウリイ?大丈夫?」
茂みの向こうから”あたし”がっひょっこり姿を見せた。
Fin
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