「女が髪を伸ばすのは、その長さ分だけ想いを込めるからなんだよ…」
暖炉の前のいつもの揺り椅子に座る老婆は、じっとしていられなくてもじもじと動く子供の髪をゆっくり梳かしながら呟いた。
肩より伸びた金色の髪が老婆の手から消えたと思うと、変わりに振り向いた大きな青い瞳がまっすぐに見上げてくる。
「じゃあ、オレばあちゃんとずっと一緒にいられますようにって伸ばす!」
ニッコリと無邪気に笑う頭を撫でながら、ガウリイは男の子でしょう?と笑った。
肩を押してくるりと向きを変えるとサラサラの髪を縛る。
「男でも伸ばすんだ。」
「あらあら、じゃあ私は何時までガウリイの髪を梳かし続けなきゃいけないのかね。」
そう言って笑う声が、ガウリイは大好きだった。
しかしそれもある日突然終わりを告げた。
そして、長年老婆を蝕んできた闇は幼いガウリイへと、その矛先を変えて襲いかかったのだ。
「何故あれが継承者なんだ!」
怒鳴り声が響く。
耳を覆いたいのを我慢してガウリイは棺の中の冷たい手を握った。
皺だらけの痩せた小さなその手はもう彼の頭に伸びることはない。
何かを決意したようにガウリイは暗い部屋を出ると寒々しい廊下を歩いた。
怒鳴り声が大きくなる。
重い扉の前に立つと中からそれが開かれた。
「………。」
大人達の視線が痛い。
その場から動くことが出来ずにいたガウリイの名を兄が呼んだ。
「入るんだ、ガウリイ」
伸ばされた手はガウリイよりも大きくて立派だ。
その手に背中を押されるように彼は前へと一歩を踏み出した。
「君が…ガウリイだね。」
と神官服の男が膝をついた。
コクリと頷くと、彼はガウリイの手に木の箱を乗せる。
「待ってくれ!それはまだ子供だ!そんなものが継承者など…認められんぞっ!?」
「それは貴方が認める事では無いはずですよ。これは代々継承者のみが次に引き継ぐ者を選ぶ事が出来るのですから…」
そして我らは新たな継承者にこれを託すのが役割なのだと言うと、神官服の男はガウリイを見つめる。
「さぁ、開けて。」
「待てっ!」
「ガブリエフの当主と言えども介入は許されません!あの方は亡くなる前に次の継承者選ばれた!
それが如何に子供であろうと、一度選ばれれば死ぬまで変更はありません!」
厳しい大人達の声を余所にガウリイは手の中の箱を開けた。
そこにはあるのは飾りが着いた剣。
刃も無ければ鞘も無い。老婆がずっと1人きりで守ってきた物だ。
彼女の小さな屋敷で見つけた時『触ってはダメよ…』と念を押すように言われた…
その剣が今、目の前にある。
手にした瞬間ぞわりと背中に何かが走る。
「止めろ!」
叫ぶ声が聞こえたが構わずガウリイは“ソレ”を呼んだ。
声が聞こえた訳じゃない。
でも確かに知っている何か…。
「…光よ…」
眩い光の刃が現われる。
しかし、ガウリイには深い闇に見えた。
掌が熱い。
左手で剣を持ち、右手を広げるとそこには何かの紋様。
焼け焦げたその痕は水が広がるように散って無くなる。
「継承の儀は、たった今終了しました。」
「……っ!」
父親の視線が痛い。
大人達の出す空気の重さにガウリイは思わず逃げ出したくなった。
それでも前を見いていられたのは託された物の重みを誰よりも理解したから。
こんなものが存在してはいけないのだと…。
「…これは誰にも渡さない…」
それだけを告げて広間を出た。
冷たい床に足音だけが響く。
早足で自分の部屋に戻ると鍵を締めた。
今にも闇が追ってきそうな不安に駆られる。
もはや、この家に自分の居場所など無いのだと解ってはいたがまだ幼いガウリイには辛い現実だった。
目尻に浮かんだ涙を乱暴に擦ったところで、初めて自分以外の気配が部屋にある事に気が付いた。
「っ!?」
思わず身を堅くする。
だが部屋で待ち伏せていた人物は彼に襲いかかる訳でも無くただ息を吐いた。
深い深いため息。
「…俺だ。」
「…に、いさん?」
「あぁ。」
「あ、え…いつの間に…」
その言葉に呆れたようにまたため息。
「ガウリイ…すぐにこの家を…エルメキアを出ろ。」
「………。」
「お前を追い出したい訳じゃない。…解っているだろう?」
「………。」
「祖母さんは親父でも俺でも…一族の他の誰でもなくお前を選んだ。その意味を…」
ガウリイは手の中のそれを握り締めた。
黙って頷く。
「そんな物必要ない。…この家にあってはならない…そうなんだろ?」
また黙って頷いたガウリイに兄は満足げに笑った。
そしてわしわしと頭を撫でる。
まるで子犬の頭を撫でる時のように少し乱暴だけど暖かい。
「じゃあ、迷う必要なんてない…行け。そして誰よりも強くなれ。」
それからもっと気配を読む訓練もしろよと兄。
ガウリイはただただ頷くだけ…。
「約束してくれガウリイ…強くなると。」
「約束する…誰よりも強くなって見せる…。」
「あぁ。それならガウリイ、優しさはここに置いて行け。闇に飲み込まれない強さを手に入れるまで…」
俺も祖母さんもお前を信じているんだから。と言って兄は手に持っていたものを押し付けた。
それは老婆の櫛。
兄弟の髪を優しく梳いた柘植の櫛。
ガウリイはギュッとそれを握り懐にしまうと剣を持ち上げた。
「光よ…」
その声に刃が現れる。
まだ短剣ほどの長さのそれは、しかしあっさりと彼の髪を切り落とした。
長さの分だけ想いを込めた。
だけど、今はその想いと優しさはここに置いて行こう。
強さを手に入れる為に。
この、眩い闇を眠りにつかせる…それが自分に託された老婆の願い。
優しく背中を押してくれた兄の想い。
光の勇者などただの幻。
光に囚われすぎて闇に染まった一族の争いの種は自分で終わりにするのだとガウリイは誓った。
そして―――
「ガウリイ!いい加減に起きなさいよね!」
怒鳴る声に目を開ければ仁王立ちで見下ろす影。
「お腹空いてるんだからさっさと着替えてよ。」
「…リナ」
「何…って、すごい寝癖…」
むくりと起き上がった頭を見て彼女は笑った。
確か櫛持ってたわよね?と言いながら荷物からお目当ての物を探し当てる。
それを持ってくると、彼の背後に回りベッドに膝をかけた。
ちゃんと手入れしなさいよね。と髪を梳かす彼女の手は懐かしい優しさがあって、ガウリイは目を閉じた。
あの剣はもうこの世界のどこにも無い。
「…なぁ、リナ?」
「んー?」
「ゼフィーリアに行く前にさ…寄りたいとこがあるんだが…」
「うん?別に良いけど、どこ?」
「ん、ちょっと報告に…」
ん?と首を傾げるリナの手から櫛を取る。
彫込みの花も随分と薄れてしまった。
ガウリイはそれを指で辿る。
「それ、柘植よね?」
「あぁ…」
「大事にしてるのね。」
「形見だからな…ばあちゃんの。」
そっか。と頷いてリナが金色の髪を指に絡めた。
あの頃よりも伸びた髪は、あの頃よりも沢山の想いと願いを込めた証だろうか?
ガウリイは再び目を閉じて彼女の手の感触を楽しんだ。
Fin
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