ソファにぐったりと寝そべっている俺の上に跨り長い髪を三つ編みにしているそれ。
小さな手でちまちまと作っては気に入らないのか解く。
その仕草や表情で解る。
そろそろ言い出すはずだ…
「…ねぇ、ガウリー」
ほらきた。
子供特有の高く響く声。
「暇だって言うんだろ…悪いが今日は駄目だ。」
「えーーーーーなんでっ!!」
暇暇暇暇!!と連呼するがこの日だけは我侭を聞くわけには行かない。
カーテンも、おまけに雨戸まで閉めた部屋の中は真っ暗。
ランプの明かりに照らされた栗色が赤く見える。
「なんで駄目なのー?」
「満月だからな。」
まんげつ?それ何?と首を傾げるリナ。
あぁ、そうかと思う。
リナと暮らし始めてから満月の夜は一度も家から出ていない。
それはリナも一緒。
彼女は見たことが無いのだ…
「まんまるの月だ。」
「…昨日もまんまるだったよ?」
「少し違うんだ。今日のは、昨日よりまんまるで明日はまた少しだけ減ってるんだ。」
まんまるの月キライなの?と首を傾げるそれに頷いた。
満月は嫌いだ。
俺が俺で無くなることが怖い…昔はそんなこと無かったのにな…
リナと暮らし始めた頃を思い出す…
満月の夜は獣の血が騒ぐ。
日が沈み月が山間から姿を現すのを眺めていた。
「そろそろ時間か…」
ぎちっと音がして骨が軋んだ。
痛みは無い。
ただあるのは体中を走る熱と高揚感。
”人”としての意識が深く沈んでいく。
身体の奥底から獣が姿を現す。
それに合わせるように自身も変化していた。
人から獣人に…そして本物の獣へと。
その時の姿をどう例えればいいのだろうか…狼に似ているがはるかに大きく凶暴。
麓の町や村を襲い…魔獣と恐れられている存在だ。
満月の夜は、この姿に変わる。
意識は完全に獣へと…
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
逃げ惑う人々の悲鳴と、上がる炎で意識が目覚める。
しかしまだ身体の支配権は獣の俺にあって自由はきかない。
喰らい付いていた家畜を放り出し通りを駆け抜ける。
弓を向ける人間を蹴散らし、更に中央へと。
ぴたりと足が止まった。
広場の中央…そこに籠がひとつ置かれていた。
遠巻きに怯える村人。
ガルルルルル……
唸りながら近づくと真白な布に包まれた赤ん坊が入っていた。
美味そうだと獣の部分が思う。
舌なめずりをして口を開けたときだ。
遠巻きにこちらを窺っている村人の中から悲鳴が上がった。
止めてっ!と。
そちらを見れば村の男達に羽交い絞めにされている女の姿。
必死に子供を取り返そうとしているようだ。
「お願い!やめて、殺さないで!!食べたいなら私がかわりになるからっ!」
そんな彼女に男が怒鳴る。
仕方が無いんだ!と。
「何が仕方ないと言うの!?どうして魔物の餌になんてならなきゃいけないのっ!!」
「あぁ、でも…」
泣きじゃくる女が叫ぶ。
「私の子よ!その子は私の子なの、返して!!返して!!」
「だめじゃっ!昔から魔獣を大人しくさせるにはこの方法しか無いんじゃ!」
「そうだ!大人しくしていてくれ、このままじゃ村が全滅しちまう!!」
悲鳴が木霊する。
赤ん坊が驚いたのか泣き出した。
小さな手足をバタつかせて。
…ふと気が付けば月が傾き始めていた。
――沈む――
人に戻る。
タンッと地を蹴ると赤ん坊の籠を銜えて森へと駆け込んだ。
背後に悲痛な悲鳴を聞きながら…
森の更に奥、人では到底上ることすら出来ない崖を赤ん坊の籠を銜えて登りきる。
その瞬間、身体が熱に包まれ骨が軋んだ。
獣に変わる時と同じで痛みは無く…凶暴なまでに高まった気が静まっていく。
完全に人に戻ると籠の中を覗き込んだ。
いつの間にか赤ん坊は泣き止んでいて、大きな目をぱちくりさせながら俺を見上げていた。
あれから、7年…俺は一度も満月を見ていない。
その光すら俺を獣に変えてしまう。
一度血が騒ぎ出せば人の意思は消え、俺はリナを喰らうだろう。
それが怖い。
育てる気なんて無かった…あの時、獣の俺が赤ん坊を連れてきたのは誰にも邪魔されない場所でゆっくり味わうためだ。
しかし、それより先に月が沈んだ。
流石に人としての意識があるときに赤ん坊を”美味そう”だとは思えない。
無邪気に手を伸ばし、きゃきゃと笑っていたそれが今では口を開けば『なんで?なんで?』と俺を困らせる。
そしてまた…
「ねぇ。ガウリイ…」
「なんだ?」
「まんまるの月…見てきても良い?」
ここで駄目だと言えばまた、なんで!?としつこいだろう。
いいよ。と言うと俺の上からぴょんと飛びのいてぱたぱたドアに近づく。
ドアをそっとあけて出て行く。
その後姿を見送って溜め息を付いた。
「満月は…嫌いだ…」
あの姿になれば…俺はまた一人に戻る。
昔は気にすることも無かった孤独が、今では耐えられない。
人間は俺よりも早く成長して、早く死んでしまう生き物だが…それでも今はまだリナの成長を見ていたかった。
満月の夜など来なければいい…
Fin
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