雪が降る。
暗い空から真っ白なそれが降り積もり、轍のあとも消していく。
劇場を出て辺りを見回したが迎えの車はまだ来ていない。
手袋をしていない手に息を吹きかける。
左の薬指にはまった金属が冷たく痛い。
あたしを縛るもの。
こんなもの…捨ててしまえればいいのに…。
通りに並ぶ車や馬車の中にあたしの知っているものは無く…逃げるならいいチャンスだ。
見張りもいない。
ぎゅっと手を握ると屋敷とは別方向に歩き出した。
「逃げる……でも、どこに?」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
寒い日だった。
今朝まで降り続いていた雨は何時しかその形を変え、雪になった。
今夜は確実に冷える。
帰宅を急ぐ俺の横を、馬車が通り過ぎる。
最近では自動車をよく見かけるようになったものの、今日みたいな雪の日は逆に馬車の方が動きやすいようだ。
仕事場の近くで、自動車が深みにはまって動けなくなっているのを見かけた。
どちらにしても、俺には関係の無い話。
手にした紙袋を濡れないように懐に入れた。
良く行くパン屋の前を通りかかった時にもらったものだ。
「今日は、ツイてる。」
鼻歌交じりに橋を渡る。
なんとなく橋の反対側を見たのだが…
「オイっ!?」
白いコートに、栗色の髪。
それが見えたと思った瞬間消えた。
すぐに大きな水音が上がる。
慌てて橋の下を見れば流されるそれがみえた。
「くそ…」
コートを脱ぎ抱えていた荷物を放り出すと俺も飛び込んだ。
雪交じりの水が肌に刺さるように冷たい。
まとわり付く服が容赦なく水底に引きずり込もうとする。
あと少しというところで、女が沈んだ。
息を深く吸い込み潜ると彼女の手を掴んで引き上げる。
水の流れに逆らわず下流に向かって泳ぎながら浅瀬を目指した。
「げほっごほ…おい…おい大丈夫か!?」
呼びかけには答えない。
なんとか川の中から這い出ると女の頬を叩く。
青白い顔。
紫色に変色した唇。
上等な毛皮のコートは今は濡れて、ただ熱を奪うだけ。
胸の前を開いて耳を当てる。
かすかに鼓動が聞こえるが息はしていない。
急いで細い顎を持ち上げた。
「…っ」
人工呼吸方ってのを聞いておいて良かった。
咳き込むように水を吐く女を見て安堵しつつ、そんなことを思う。
雪は降り続く。
あたりを見渡せば、あの橋から随分と下流に流されたようだ。
「…はぁ、パンとコートはもう諦めるしか無いよなぁ…」
がっくりと肩を落とす。
でも、まぁ…とりあえず、助かってよかった。
カタカタと震える身体を抱き上げてとにかく家に急ぐ。
一刻も早く寒さを凌げる場所へ行かなければならない。
冷たい。
手足の先から痺れて凍って動かなくなる。
鉛のように重くなったコートが水底にあたしを引きずり込む。
シルクのドレスが鎖になって絡みつく。
望んだことだ。
らしくないけど…でも逃げ場など、この世のどこにもないのだから。
「………!」
だれ?
「………っ!」
誰かが呼んでる。
でも、やめて…あたしを連れ戻さないで…このままそっとしておいて。
もう嫌なの。
…?…
あぁ、なんだろう?
すごく暖かい。
目を開けると同時に苦しくなる。
咳き込んで水を吐き出した。
霞む意識の中、降り続く雪の白と金色が目に焼きついた。
流されたおかげで川の下流にある家には早く着いた。
中央通りの大橋の下。
寄せ集めの廃材で作った俺の城。
入り口のドアが曲がっている所為で開け辛い。
彼女の震えがうつったように鍵を取り出す自分の手も震えていた。
お世辞にも広いとは言えない部屋には一応ストーブ。
急いで薪を放り込み火をつける。
その前に彼女を寝かせ、濡れた服を脱がせると寝台代わりの長椅子から毛布を取り身体に巻きつけてやる。
これで少しはマシになっただろうか?
その時だ。
ドンドンとドアを叩く音。
「おい、ガウリイ。いるのか?」
聞き覚えのある声に安堵し、息をつくと立ち上がる。
ドアを開けると馴染みの顔。
「よぉ、ゼル。」
「よぉって…これ、お前のじゃないか?」
呆れた顔で手の中のそれを差し出す。
そこには見慣れたコートとパンの紙袋。
「お、俺のメシと服!」
「やっぱりお前か…なんで道端に落として…ん?濡れてるのか?」
長い髪からぽたぽたと雫が落ち、尚且つ顔色の悪さに気が付いたらしい。
「あ、いやちょっと川に…」
「落ちたのか!?」
「あ、えっと…飛び込んだというか。」
「なっ!?馬鹿かお前は!!」
「う、すまん。…でもその…」
「なんだ?」
「…おぼれてて…」
「溺れていた?誰が?人か?」
それなら一大事だという表情。
でも何故か俺は嘘を付いた。猫だよ…と。
アレは足を滑らせたのではなく自らの意思で飛び込んだものだ。
彼女は知らせて欲しくないのかもしれない…そう思ったら自然と嘘を口にしていた。
「大体お前は昔から…って、そんなことは良い!早く暖めないといくらガウリイでも死ぬぞ。」
「あ、あぁ。今ストーブに火入れたとこだから。」
そうかと頷き、さっさと着替えて寝ろと念を押して去っていく友人。
途中であぁ、と思い出したように振り向くと「明日は仕事を休め」と告げる。
「いいのか?」
「あぁ。俺の用事で使いに出したことにしておく。ゆっくり休め。」
俺の手にあるのとは比べ物にならないほど仕立ての良いコート。
悪いな。と告げてその背に手を振る。
小さな頃は、よく一緒に遊んだものだ。
父親が借金を背負い自殺。
家を失い周りの目や態度が変わっても、唯一変わらなかったのは奴とその家族だけ。
今だって、もっとまともな仕事と家を用意してやると言ってくれるがそれは断った。
そこまで世話になるわけにはいかない。
それに頭を使う仕事より、身体を動かしているほうが良い。
それでも…結局はゼル家の会社の仕事を紹介してもらっているのだ。
十分すぎるほど感謝している。
ドアを閉め、戸締りをして濡れた服を脱ぎ乾いた服に着替える。
身体が芯から冷え切って震えが止まらない。
ふと見れば彼女も、カチカチと歯を鳴らしている。
さて…どうするか?
考えている間にも震えは止まらず、彼女は毛布の下で身体を小さく丸めていた。
「…この場合…仕方ない、よな?」
ストーブに新しい薪を何本か突っ込む。
一瞬弱まった火はまたすぐに燃え始める。
毛布ごと抱え上げるとうっすらと瞳が開いた。
炎に照らされて赤く見える瞳。
濡れた髪を撫でてそっと頬に口付ける。
「…っ」
そのまま首筋に舌を這わすと、か細い声を上げた。
毛布を剥ぎ取り、冷たい肌に手を滑らせる。
自身もシャツを脱ぎ、素肌を合わせるように抱きしめればじんわりと熱が伝わってきた。
わき腹から足にかけて手を滑らせ、舌は鎖骨のラインを辿るように這い…
「んっ、ぁ!」
と彼女の漏らした声にハッとした。
慌てて、身体を入れ替えて彼女を上にすると毛布をかけ直し背中をゆっくり撫でる。
ちょっとやばかった…これ以上続ければ途中で止める事が出来なくなる。
パチリと薪がはぜる音がして、ストーブの炎が揺らいだ。
この暖かさはなんだろう?
優しく触れる手は…誰のもの?
聞こえてくる心臓の音。
背中を撫でる大きな手はごつごつしている。
不思議な感じがした。
もっと強く、抱きしめて欲しいなんて…そんなこと初めて思った。
薄っすらと目を開ける。
背中を撫でるくすぐったいような暖かな感覚に、ほぅと息を漏らすと低い声が驚くほど近くで聞こえた。
「気が付いたか?」
耳に直接響いてくる感覚。
「だ、れ…?」
身体に力が入らない。
身動ぎすると背に回った手の感覚が少しだけ強くなった。
「悪い…イヤかもしれないけどもう少しこうしてたほうが良い…」
「…ぁ」
「震え、止まるまでは。」
言われて初めて気が付いた。
凍るほど体が冷えていること。
そして思い出す…暗闇に引き込む冷たい水。
じゃぁ、あの時あたしを引き戻したのはこの人?
この優しい目をした人?
「…なんで落ちたのかなんて聞かないけどな…」
「………。」
「大事にしろよ…」
命。
あたしのソレなんて価値の無いものだと思っていた。
なのに…この人は命がけで助けてくれた。
涙が溢れる。
体が、寒さとは別に震えだす。
「す、すまん…泣くほどイヤなら…」
慌てて離れようとする身体に縋りついた。
力が入らないから正確にはただ身動ぎしただけだが…それでも何かを感じてくれたのかあの瞳が覗き込む。
「…どうした?」
「…イヤ…」
「?」
「放さないで…お願い…お願い。」
今、この時だけでも…そう願う。
名前も知らない人なのに、何故こんなにも安心するのだろうか?
心が温もりを求めているのだろうか?
背に回された手の力が更に強くなって、はっとする。
ほんの一時でも…現実を忘れてしまいたいと…そのために利用しようとしている自分に気が付いたから。
「…そんなこと言われるとだな…こっちとしても、その…」
「いいわ。」
「え?」
抱いて。
酷いコト…助けてくれた優しい人を、更に利用しようなんて。
現実から逃げるための道具にするなんて…
「…名前。あんたの名前は?」
背中の手が腰と頭に回る。
「リナ…よ。」
体の位置が入れ替わり、湿った金色の髪が降ってくる。
呟きはすぐにキスに吸い取られた。
こんなにも必死な瞳を、誰が彼女にさせるのだろうか?
冷たい川に飛び込んで命を捨ててしまおうだなんて…
昔の自分が重なる。
家族も、住む家も、何もかもを失った自分。
支えてくれる奴はいた。
皆が背を向ける中、手を差し伸べてくれた友人。
それでも、心のどこかで自分はもう別のものだという思いもあった。
関わってはいけない。
住む世界が違う。
多くを望むことも、幸せを求めることも許されない贅沢なのだと…
「…ぁ」
小さく上がった声に気が付く。
彼女に自分を重ね見ているのは、救われたいという想いが共通するから。
利用しているのだ…俺は。
現実から逃げ出したいと願う彼女の気持ちを利用して…自分自身も一時の夢に逃げようとしている。
「ガウリイ…」
切ない声で呼ばれる俺の名前。
キスの合間に教えたそれは、彼女の口から漏れると、特別な意味を持ったものに聞こえるから不思議だ。
何故こんなにも引き合うのか…そんな事すらどうでも良いことのように思えて夢中で細い体を掻き抱いた。
深いキスを繰り返し、体中を探り合い、ただひたすらに…互いを求める。
震えていた体からは汗が噴き出し、熱の篭った息が狭い部屋に満ちる。
「…リナ」
心に空いた穴はきっと同じ形をしている。
互いにそれを埋め合おうと必死で身体を重ねた。
意識が飛ぶほど夢中になるなんて初めてだった―――――
目が覚めたのは、まだ日も昇らぬ頃。
指の一本も動かすのが億劫になるほどの痺れが体中に満ちている。
既に部屋を暖める火は消えていて、薄い毛布では寒いほどだ。
現に室内だと言うのに吐く息が白い。
それなのに…触れる肌は何故こんなにも心地良いのだろう?
涙が出るほど暖かいのはどうして?
優しくされたことなどない…人として扱われたことも…あたしは只の人形だ。
家柄だけを求められ…そのために家族を失った。
帰る場所など無い鳥籠の鳥。
―――そう、籠の鳥…だ。―――
つかの間の幸せはもう終わり。
…終わりにしなければいけない…
「さよなら…」
優しい人。
頬に口付け、服を着る。
まだ乾ききらないコートを持って外へ出た。
結局逃げられないのだ…そう悟ったが、これからは昨夜の夢をみて生きていける。
降り積もった雪を踏みしめ街に向かって歩く。
突き刺すような空気がむしろ心地よかった。
目を閉じれば思い出す…激しく焦げるような感情。
ドキドキと心臓が踊りだす。
ほぅ…と息を吐いて目を開けた。
瞬間、身体が凍る。
通りに見知った顔があった。
こちらを睨み、大股で近づいてくる。
「…ヴァル…」
鳥籠に戻るときが来た…。
目を覚ましたときには彼女は消えていた。
何もかも夢だったかのように跡形も無く。
ただ、あれは現実だったと告げるように残る身体の痺れと微かな温もり。
急いで服を着ると後を追った。
雪に残る小さな足跡。
街に向かっているそれを追いながら…『追いついてそれでどうする?』そんな考えが頭をよぎった。
引き止めるのか?
行かないでくれと?
俺の傍にいてくれ…そんなコトを言うのか?
あれは一夜限りの夢のはず。
そんなこと以前に俺は彼女の何を知っていると言うのだろう―――
「…は、はは…っ」
笑いが漏れた。
何も知らない。
教えられた名が本当かどうかすら解らないじゃないか。
足が止まる。
心が沈む。
…でも、それでも追いつかねば、あの手を掴まねば…そう思う自分もいる。
ここまで執着する理由はなんだ?
「くそっ…」
頭の中がぐしゃぐしゃだ。
乱暴に髪をかき混ぜた。
訳がわからない…こんな気持ち俺は知らない。
胸が熱く焦げてしまいそうな感情が、なんで会って1日もたっていないような女に生まれる?
しかも、人のものだ。
彼女の左手にはまった指輪に気が付かない程馬鹿じゃない。
馬鹿じゃない筈なのに…
考えていてもその答えは見つからず、俺は再び走り出していた。
兎に角もう一度会いたい。
その思いだけだった。
建物の陰の雪の無い場所を通り過ぎた時、細い路地の向こう側に目が止まる。
「…あ」
探していた彼女の姿がそこにあった。
強張った表情。
彼女の腕を掴む誰かの手。
考える前に身体が動いた。
強く腕をつかまれる。
本当は帰りたくなど無い…だけど…
「全く!手間かけさせやがって!!」
「………。」
「昨夜は何処にいた?」
答えられない。
答えたら…あの人はきっと殺される。
どこだ?と聞かれて咄嗟に、教会よ…と答えた。
朝を告げる鐘の音が響いていた。すぐにバレる嘘だ。
「教会ねぇ…」
「…歩いて帰れると思ったんだけど…雪が凄くて…」
怖かった。
この男が怖いんじゃない。
屋敷にいるであろう…あの人が怖いんじゃない。
ただ…失うのが怖かった。初めて優しくしてくれた人を―――
だからどうかまだ彼が目を覚ましていませんように…そしてあたしなんかを追ってきませんように…
そう祈って気が付いた。
何を自惚れているのかと。
追ってくるはず無い。
だって…昨夜のあれは、彼にとったらただ流されてそうなっただけのことだ。
その行為に愛情があった訳じゃない…愛情などなくても出来ることをあたしが一番知っているのに。
何を勘違いしていたのだろう?
何故追って来てくれるなんて思い込めたのだろう?
馬鹿らしくて笑いたいくらいなのに、なんで涙が…
零れ落ちそうなそれを必死で堪えた、その時だ。
ゴズッ!!
と音がして、あたしの腕を掴んでいたヴァルが吹き飛んだ。
「何が…」
起こったの?と唖然と雪に倒れる男を目で追う。
その視界に金色が見えた瞬間…堪えていた涙が溢れた。
はぁはぁと肩で息をしている。ここまで走って…追ってきてくれたのだ。
ガウリイは倒れた男を睨みつけたままあたしを背に庇うように間に立った。
「…がう」
手を…彼に伸ばしかけた。
だけど、「そうか、そう言うコトか…」と言う低い声にあたしは我に返った。
プッ!と血を吐き出しながらヴァルが立ち上がる。
手の甲で切れた口の端を拭った。
「リナに触るな。」
ガウリイが唸る。
だけど…ダメ…ダメだ。
「へぇ?触るなねぇ…」
ぴりぴりとした空気。
随分と良いご身分だなぁ?とあたしを睨む瞳。
彼の手がコートの内側に向かう。
「この俺に手ぇ出して…生きて帰れると思うなよ…」
ヴァルが銃を抜いた。
殺される。この人が殺されてしまう…身体はすぐに動く。
あたしを庇う腕を押しのけて、銃を持つ手に飛びついた。
「やめてっっ!!」
リナっ!と叫ぶ彼の声。だけど振り向けない。あたしは彼の元には行けない…
「…なんのつもりだ…あぁ?」
「止めてって言ってるのよ!」
「お前にそんなコト言う権利があると思ってんのか?」
銃口はあたしの胸にある。
こいつが引き金を引けば…死ねるだろうか?
きっと昨日のあたしなら喜んで受け入れたであろう…でも、死にたくない理由が出来た。
死なせたくない人ができた。だから…
キッと鋭い目を睨みあげる。
「あたしを殺す?でも出来ないでしょう…あたしが死んだら、あの人はあんたも殺すでしょうね…」
冷たい指輪が食い込むよう。
存在を主張するそれは、まるで猛々しいあの人そのもの。
欲しいものはどんな手を使っても手に入れ、気に入らないものは排除する…恐ろしい人。
あの人が欲しいのはあたし自身なんかじゃない。
家の名前と権力…それを行使するために、あたしは生かされてる。
それも、時間の問題だろうけど…それでも今はまだ必要なはずだ。
「勘違いするなよ…お前は息さえしてれば、後はどうなろうとあの方は気にしない。それに、俺が殺りたいのはそっちの男の方だ。」
どけ。と凄む。だけど…譲るつもりはない。
「嫌よ。彼を殺すって言うなら、あたしも舌を噛んで死んでやるわ…そしたらあんたも道連れね?」
「…テメェ…」
「どうする?何も無かったことにしてあたしを連れて帰るか…彼を殺す事で自分の人生も終わりにするか…」
沈黙はわずかな間。
大きな舌打ちをした後、銃を収めた。そのまま、あたし腕を掴む。
振り返らずに、行くつもりだった。
彼の顔を見ずに…去るつもりだった。だけど『リナ』と引き止める声。
「行くな。」
心は激しく揺れた。
だけど、それを振り払うようにあたしは首を振った。
「リナっ!」
強く優しい声。
だけど、「いい加減にテメェは黙れっ!」とヴァルが殴りかかった。
今度はガウリイが倒れる。
声にならない悲鳴が喉を突いた。
「さっきの礼だ、次に会ったら殺す。今は…命があるだけありがたいと思え。」
行くぞ。と腕を引かれ…あたしはそれに従った。
これ以上…彼が傷つくのを見ていたくない。
『サヨナラ』の台詞は言えず、変わりにペンダントを外すと薄っすらと雪が積もった石造りの台においた。
あたしが自由に出来るものなんて…これしかない。
車に押し込まれるように乗せられて儚い夢は終った。
拳を握り締める。
爪が食い込んで鈍く痛み…だけど胸はもっと痛かった。
軋むように締め付けられる。
彼女は去った。
元いた場所に…もう手の届かない場所に―――
捨ててしまうのは簡単な事だったが、彼女が残していったペンダントを俺は捨てられずにポケットにしまった。
胸にあるどうしようもない悔しさにも、怒りにも似た気持ちをぐっと堪えて元来た道を戻った。
歩みは遅く重い。
答えははっきりとここにあるのに…手が出せなかったのは拒絶が見えたから。
あんなにも悲しい瞳を俺に向けるのに、その手を掴む事を許さない。
「リナ…」
どうしてなんだ?
お前が望むなら、俺は何処にだって連れて逃げてやるのに…
贅沢な暮らしも、良い服も着せてやることは出来ないけれど、あんな悲しい瞳だけはさせない。
追い詰められて自ら命を捨てようなんて…そんな馬鹿なこと考えられなくなるくらい愛してやる。
彼女のことなど何も知らないのに、それだけはハッキリと言える。
「…愛してる…」
澄んだ朝の空気が胸に染みた。
雪交じりの泥を跳ね除け進む車。
あたしは馬車の方が好きだ…あの人が好むものは何一つ好きになれない。
ぼんやりと外を眺めながらそう思った。
住み慣れた我が家も…幼い頃の楽しい思い出が黒く塗りつぶされた牢獄になってしまった。
何もかも…あの人に奪われ消えていった。
「降りろ。」
止まった車から引き摺り下ろされる。
自分で歩けるとその手を払いのけて門をくぐった。
綺麗に整えられた庭には花一つ咲いていない。冬なのだから当たり前だが…。
重い扉を開け、中に入れば磨き上げられた寒々しい大理石の床。
玄関ホールから二階に上る階段をふと見上げ…身体が硬直する。
ごくりと、唾を飲み込む音が大きく聞こえた。
赤毛の大きな男。
冷たい目は暗く鋭く…獣のようだ。
「随分と早いお帰りだな。」
よく響く低い声。
ただいま戻りました。と隣でヴァルが頭を下げる。
あたしは動けなかった。
何もかも見透かしたような目に貫かれる。
その人が一歩、また一歩と近づくたび、後ずさろうとする自分。
それでも、何とか立っていられたのは意地だ…決して弱さを見せてはいけない。
それは、生き残るための…動物の本能なのかもしれなかった。
「昨夜は何処に泊まった?」
ぐいと顎を持ち上げられる。
あたしは睨むように見上げると『教会よ』と嘘をついた。
ほぅ…と呟くその顔は信用などしていない。そもそも彼は誰も何も信じない。
だけど、この嘘は突き通さなければ…決して認めてはいけない。
大事なものを守るために。
「教会よ。」
もう一度念を押すようにハッキリと言う。
そうよね?とヴァルに振れば『確かに…』と苦い声。
問い詰めたところでこれ以上は、話す気が無いと悟ったのか…それとも興味が薄れたのか、彼はアッサリと引いた。
「…部屋に連れて行け。」
そしてあたしは、青い空さえ見ることの叶わない…鳥篭に戻った。
彼女が去って…また何時も通りの生活に戻った。
何もかもが灰色の世界。
起きて、仕事をして、飯を食って寝る。
当たり前の生活が酷く重い。
目を閉じて浮かぶのはあるはずも無い彼女との夢。
暖かい家、幸せな笑顔、俺を呼ぶ声――
どれもこれも、現実を見ることの無い俺の夢。
彼女は人のもの、別の男の妻。
例えそれが望んだ結婚では無かったとしても…他人の俺にはどうにも出来ない。
それでも、求めてくれるなら…たった一言を与えてくれるなら…しかし、リナは何も言わなかった。
俺に何も求めず去った。
最後に見た彼女の瞳は悲しみに染まり、小さな背中は確かな別れを告げる。
これ以上踏み込んで来ないで。とそんな拒絶さえ見えた。
「リナ…」
胸に溜まった思いは知らず知らず漏れる。
どこにいても、何をしていても想いは彼女に向かうのだ。
小さな銀のペンダントを握り締める。
冷たいはずのそれからは、彼女と同じ温もりが感じられた。
会いたい
彼女に―――
あの日から、何かが足りない。
そんな俺の変化を感じてか、幼なじみがやってきた。
立て付けの悪いドアを開いて中に招き入れる。
それは、ぐるりと狭い室内を見渡して『猫はどうした?』と聞いてきた。
その問いに肩が震える。
「…猫…」
あの雪の夜、拾った猫。
川に流され震え、何かに怯えて助けを求めるようにすがり付いてきたその猫は…
「なんだ?逃げられたのか?」
「…あぁ。帰ったよ自分の家に…」
そうか。とゼルガディスは呟く。
知っているのかどうなのか…『追わないのか?』と俺を見た。
追う?彼女が拒んだのに?
「…何故?」
聞き返すと、呆れたという顔でため息をついた。
『未練たらたらの顔をしている』と。
本当に、この友人は何処まで知っているのだろうか?そう思ったが、見透かしたように肩を竦めた。
伊達にお前の幼馴染やってる訳じゃないぞ?嘘を見破れないでどうする?と。
あの雪の夜、咄嗟の嘘は意味が無かったと言う事か。
脳裏に彼女が浮かぶ…
――空から降る雪、
震える小さな身体、
必死に何かを求める瞳、
強く強く抱きしめて…
雪解けの水みたいに溶けてしまえればよかった。
決して離れることの無いように――
けれど、彼女は…望まなかった。
自ら去っていった。
「無理だ。」
「何故?」
「人のモノだ…」
「それがどうした?」
どうした?と言われても…。
「望んでない。」
「誰が?」
「…彼女が…」
俺の言葉は自分に言い聞かせるためのもの。
求めてはいけない。
望んではいけない。
何故なら彼女は人の妻だから…そう言い訳をしているのだ、自分自身に。
「で?ガウリイはどうしたいんだ?諦めるのか?」
諦める?
そんなこと出来るわけがない。
彼女を諦めるなど…出来るわけが無いんだ。
「ゼル…」
「なんだ?」
「調べて欲しいことがあるんだ。」
俺はようやく気が付いた。
答えは初めから出ている。
「手を貸そう。」
ゼルガディスは不適に笑んだ。
裏庭の、なかなか溶けない日陰の雪を毎日眺めていた。
毎日毎日…日が昇って落ちるまで。
あの日以来屋敷から出ることは無い。
この部屋から出ることすらあまり無いのだ。
食事はメイドが運んでくる。
バスルームもすぐ隣にある。
ここは籠だ。窮屈で自由の無い檻。
すっかり動きが止まっていた編み物を再開するべく視線を手元に移す。
ガウリイの元を去って数ヶ月が経とうとしている。
冬はもう終ろうとしていた。
「また、そんな窓際で…風邪を引かれても知りませんよ?」
部屋に入ってきた年配のメイドがもう口癖になってしまっている言葉を今日も言う。
そして強引にクッションが置かれた暖炉前のソファーにあたしを座らせる。
「編み物ならここでしてくださいませ。」
「…でも、外が見たいのよ。」
「そう言って…数日前、体調を崩されたのは何処のどなたです?」
「うっ…」
ごめんなさい。と謝って大人しく柔らかなソファーに背を預ける。
ホットミルクを受け取ってこくりと飲むと、視線は自然と窓に向かう。
冬の灰色の空は、いつの間にか春の色を見せるようになった。
それでもまだ今日のように冷え込む日もある。
冬を…あの夜を思い出させるように白い雪が舞う…
「…ずっと…冬ならいいのに。」
ぽつりと呟くと、メイドが怪訝そうな顔をした。
ふぅと息を吐くと肩をすくめる。
「寒がりでいらっしゃるのに何を…それに、わたくしは嫌ですよ。冬は嫌いです。」
「なんで?」
「…良い思い出がありませんから…」
彼女はあたしを”奥様”ではなく”お嬢様”と呼ぶ。
幼い頃から母親のように傍にいてくれた人だ。
全てを…あの恐ろしい人に奪われて、逃げるように去っていく使用人の中で唯一残ってくれた一人。
『…別に、平気よ…あたしは平気。』
『お嬢様?』
『みんな出て行った…あなたもいいよ。次の働き口も紹介するから…』
告げた時、微笑むようにグリーンの瞳が細められた。
そしてあたしの手を取り包む。
『わたくしは、他に行きたい場所がありません。』
『…でも、この屋敷はもう、』
『ここはお嬢様のお屋敷です。この家はあなた様のものでございます!』
『あたし…』
『わたくしは、あの者を認めません…ですからお嬢様…どうか出て行けなどと言わないでくださいまし。』
『…ごめんなさい。』
違うでしょう?と彼女は微笑み…あたしは、ありがとうと泣いた。
暖かな屋敷が牢獄へと変わったのも冬の出来事だ。
「辛いこと…確かに冬に起こったけど…素敵な事もあったわ。」
「そうですか…」
「うん。あなたが傍にいてくれる事も。それから…」
窓の外にまた目を向けた。
あぁ、青い空が見たい――窓越しでなく広い場所で。
貴方の瞳が見たいわ。
ゼルガディスの調べで、彼女の居場所はすぐにわかった。
高い壁に囲まれた隙の無い屋敷を眺める。
寒々しく窮屈にさえ見えるその向こうに彼女がいる…
「なんだい?兄ちゃんまた来てるのか?」
通りの端に立ちそれを眺めていると横から声がかかった。
そちらを向けば店の窓を開けて来い来いと手招きする男が一人。
近づく俺に、いつものように飴を差し出す。
「よくまぁ、毎日毎日…人の忠告も聞きゃしない。」
「止めろって言われても困るんだ。」
貰ったそれを口に入れる。
甘い甘いそれ。
この場所で彼女の屋敷を眺めるようになってどれくらいたったころだったか…
『…止めとけよ、兄ちゃん。』
『ん?』
『ここ数日ずっと見てるだろ…あの屋敷。』
『あぁ。』
『何を考えてるか知らねぇけどな、あの家は止めておいたほうが…』
『知ってる。でも、どうしても…』
『…まぁ、事情は聞かねぇけどよ…これでも食え。』
そう言って渡されたのは飴玉。
飴?と聞き返すと、疲れた顔してるからな。とおやじは笑った。
「で?どうするんだ?」
「…どうしたら良いんだろうな…」
「お嬢さんは屋敷から出られないって話だ。」
驚いたようにおやじを見ると片方の眉をぴくりと上げて、気が付かねぇと思ったのか?と苦笑い。
「お嬢さん付きのメイドが時々街に出ていろいろ買っていくんだが…その時言ってたな。」
「…何を?」
「ん?大雪の日に行方不明になったんだとさ…そのままどこか遠くに逃げてくれれば良いと思っていたんだが翌日には連れ戻されて…」
「………。」
「でも、幸せそうに笑ったんだと。どこかの誰かを思って、な。」
そりゃあんたの事だろ?そう言われて胸が熱くなった。
リナに…会いたい。
「お嬢様?」
ぼんやりと夕焼けに染まる建物の壁を眺めていた。
眠っていると思ったのだろう。控えめにかけられた声。
「何?」
「眠っていらっしゃるのかと…」
「夕日を見てたの。白い壁の家が紅く染まって綺麗でしょ?」
そうですね。と彼女は微笑みショールを肩にかけてくれる。
夕暮れ時は冷えますよ。といつものように呆れた顔で。
窓辺にいることが多いから気にしているのだろう。
少し過保護な気もするけれど心地良い。
「それで、何?」
首を傾げると、手を出してくださいと彼女。
言われるままに手を出すと白い紙に包まれたものを乗せてくれる。
「…なに?」
「飴です。」
「あぁ、通りの向こうの…懐かしい。おじさんは元気?」
包みを開いて出てきたのは色とりどりの飴玉。
宝石のように鮮やかで、ザリザリとした砂糖の粒が日の光にキラキラ輝いて見えて…
子供の頃、店の前に張り付いてよく眺めていたものだ。
そうして眺めていると決まっておじさんは飴をくれた。
おいしい、おいしい!と食べると今度は鼻歌交じりに飴細工披露してくれて…
一つ摘んで口に入れる。
懐かしい味。
「元気ですよ。無駄に元気すぎて困ると奥様が言っておられました。」
「美味しい。今度お礼を言っておいて。」
あたしは直接言えないから…その言葉を飲み込むように飴を転がした。
「伝えておきます。では私は夕食の用意をしてまいりますので…」
「うん、お願い。」
では失礼いたします。と部屋を出て行く彼女がふと立ち止まりあたしを見る。
なに?と首を傾げるとニコリと微笑んだ。
「その飴の包み紙…」
「うん?」
「それもお嬢様へのプレゼントだそうです。」
「え?」
では、と部屋を出て行く。
只の紙がどうしたんだろう?と包みを開き飴を退けて…
「っ…!」
声が出なかった。嬉しくて。
こんなにも素敵な贈り物を貰ったことは無い。
たった一言。
飴玉の下から出てきた言葉。
――君を愛してる――
空色の飴玉が愛おしい。
「考えたものだな…飴の包み紙にメッセージとは…」
赤い色の飴玉を摘んで口に入れながらゼルガディスは呟いた。
俺は、手渡された資料に目を通していたのだが…
「ゼル…」
「なんだ?」
「…これは…本当なのか?」
手が震える。
感情がいくつも渦巻いて、冷静になろうともがいてもどんどん深みに落ちていくようだ。
「確かな情報だ。」
静かに告げる友を前に…俺は情けなくも涙を堪えられなかった。
そこに書かれていた事実。
それは―――
「リナが…俺の子を妊娠…」
今すぐ抱きしめてやりたい。
愛していると伝えたい…ちゃんと自分の口から。
しかし、喜びも不安に変わる。
それは彼女と…お腹の子の安全だ。
ゼルガディスの調べで彼女の夫が、ガーヴであると知った。
俺から家族も、家も…全てを奪った元凶の男。
あいつが何をするかなんて想像がつく…。
「安心しろ…と言うのも変だが…子供ならば無事に生まれるはずだ。」
ゼルガディスの言葉…しかし何かひっかかる。
「子供なら…ってどういう意味だ?リナは?」
「…前回の報告書を読んだだろう?」
「あぁ。」
「奴が無理矢理彼女と結婚したのは…」
「財産と権力が欲しかったからだ。」
あぁ。と頷き、彼が続ける。
しかし、それを行使するためには”彼女”が必要だった。
家族が死んですべてを相続したのはリナ。
だから無理矢理妻にして、彼女の持つモノを奪い…後は始末する気だった…。
「だが…ここで、彼女の父親の遺言書が出てきた訳だ。」
リナが死ねば…その財産全て教会に寄付すると。
相続人であるリナのサインもそこにあった。
「リナを殺したら…思い通りに金を使えなくなる所か何も手に入らない。だから彼女に手を出さない…そのはずだろ?」
「…だがそうでもない…」
「どう言うコトだ?」
遺言書には但し書きがあり…彼女にもし子供が生まれれば…遺言は破棄される。
それはすなわち…彼女の子供が全ての財産を相続すると言うこと。
「…思い通りにならない女より…生まれたばかりの赤子の方がこの先都合が良いだろうからな…」
「………。」
「子供の父親を確かめる術は無い…あの男が、自分の子だと言ってしまえばそれで終わりだ。」
「………。」
「その頃には…彼女は殺されている可能性が高いしな…」
リナが…死ぬ?
俺の子を生んで…奪われ…そして死ぬのか?
「駄目だ…」
なんとかしなくては。
彼女も、子供も…この腕の中に―――
「それを着て今夜のパーティーに出ろ。」
ノックも無しに部屋に入ってきた男はそれだけ言うとドレスをあたしに投げてよこした。
真っ赤なそれは血の色だ。
あの人と同じ支配者の色…。
だから、赤は嫌い。
「返事はどうした?」
返す言葉など初めから決まっている癖に…。
わかったわ。と答えるとドレスを手に取った。
「時間になったら下りて来い。」
遅れるな。と言い残して去っていく…ドアがばたんと閉まった途端…身体から力が抜けてカクンとその場に座り込んだ。
あの人は闇だ。
全てを喰らい、焼き尽くすドラゴンのように獰猛で恐ろしい。
妊娠に気が付いたとき…喜びと同時に恐怖が襲った…。
お腹の子は…あの人の子供ではないのだから。
あの時の苦しい言い訳など通用しているはずが無い。
殺される…そう思った。
しかしあたしはこうして生きている…その理由も、またすぐに解ったけれど…
「最後まで…守ってあげられなくなるね…ゴメンね…」
膨らみ始めたお腹に話しかける。
この子を産めばあたしは用済み…そんなこと解ってる。
逃げ出せば済むことだけど…そんなことをしたら、彼を失う。
ヴァルは執念深い…あたしが消えれば腹いせに彼を殺すだろう。
でも、ここに残れば…子供の命は助かる。
彼だって…無事なはず。
あたし一人が消えるだけなのだから大丈夫。最初に戻るだけだ…あの雪の日、一度捨てた命だから。
「愛してるわ…」
生まれたこの子に聞かせてあげられない言葉だから…せめて今のうちに飽きるほど言っておこう。
お腹の中にも届くように。
「いいか…チャンスは今夜…それ以外は無い。」
「あぁ。わかってる。」
「通りの向こうに馬を用意した。妊婦の彼女には悪いがこれが一番足が速い…」
上手く連れ出して北に向かえとゼルガディスは言った。
迎えの馬車を用意しておくからと。
結局、何もかも世話になってしまった。
「ゼル…」
口を開く前に、やめろ。と手で制する。
ほんのりと赤くなっているように見える照れているのだろう。
「いいから、さっさと行け。」
「あぁ。」
親友に別れを告げると彼女の屋敷の裏口へ向かった。
暗い路地を抜け招待客の車で渋滞中の正面玄関横目に裏へと回る。
蔦に覆われた壁。
そこに良く見なければ解らない古ぼけた戸がある。
言われていた通りコンコンココンとリズムをつけて叩く。
少し間があって中から鍵が外される音がした。
ギギギィ…
と軋んだ音を上げる。
お待ちしておりました。と、中から現れたのは年配のメイド。
彼女に飴を届けてくれた人だ。
「リナは?」
「ホールにいらっしゃいます…すみませんここまでお連れする隙も、今日のことを説明する余裕も無く…」
申し訳なさそうに深々と頭を下げる彼女に首を振った。
迎えに行くから大丈夫だと。
彼女は何も知らない。
知らないのではなく伝えなかった…というのが本当のところだ。
もし、迎えに行くと伝えたなら…優しく素直じゃない彼女はそれを拒んだだろう。
この屋敷に近づけば…俺が殺されると恐れているから。
メイドの彼女にそう聞かされたとき…正直嬉しかった。
たった一晩…言ってしまえばそれだけの関係だと言うのに俺はこんなにも想われてる。
時が過ぎるほど、愛しさは薄れるどころかどんどん増して…
「必ず連れ出すさ…リナが嫌だって言っても、もうあの手を離したりしない。」
「…お嬢様を…よろしくお願い致します。」
ずっと一人で彼女を支えてきたメイドの手は暖かくて、力強い。
その手を握り返して俺は頷いた。
「それじゃぁ…俺は行くから。貴女は…」
「わたくしは…グレイワーズ様のお屋敷に向かえばよろしいのですね?」
「あぁ。しばらくゼルが匿ってくれるから。」
落ち着いたら連絡くださいませ。すぐにでも飛んで行きます。
そういい残し、微笑んだ彼女は今度こそ背を向け通りの向こうへと消えていった。
時間は限られているのだ…
「リナ、待ってろ…」
「少し風に当たってくるわ…」
隣に立つ男は返事をするわけでもなくあたしを見下ろした。
パーティにくる客はひっきりなしに、この人のご機嫌を取ろうと群がってくる。
正直、気分が悪い。
人に酔ったとも言えるが…もっと別のもの。
彼の周りには誰もが口に出さない悪意が満ちていて…
「ヴァ…」
「一人で平気。ちょっと庭に出るだけだから…」
パティーホールの入り口に立っていたヴァルを呼ぼうとする前に言葉をさえぎる。
監視役など…この屋敷にいる以上必要無い…。
一人になりたいのだ。
ただ風に当たって…空が見たかった。
夜だから青空ではないけれど。
「…行け。」
低い声。
あたしは頷くとテラスから庭へと降りた。
夜風が少し肌寒い。
ショールを持って来れば良かったね?お腹を撫でながら話しかけた。
膨らみ始めたお腹。
新しい命が確かに存在しているというのはなんだか不思議な感じだ。
大切な子。
愛しくて、愛しくて…今すぐにでも抱きしめてあげたい。
大理石の柱に背を預け空を見上げる。
キラキラと輝くそれに手を伸ばし…視界に入った指輪に心が沈む。
「捨ててしまえればどんなに楽か…」
ぽつりと漏らした言葉。
ただの独り言…だけど、それに答える声があった。
「なら、捨てろよ…そんな物。」
驚いて目を向けた先には…聞きたかった声と、見たかった青い瞳があった。
「がう…リイ?」
掠れた声で呟いた。
数歩離れた場所に恋焦がれた彼女がいる。
「…迎えに来た。」
信じられないと言う顔で俺を見ている。
そして、辺りを見回し首を振った。
一緒には行けない。と言いたいのだろう。
「リナ!一緒に行こう。贅沢な暮らしはさせてやれないけど…」
数歩離れた場所にいた彼女との距離を詰めその手を掴む。
俺を見上げる、その瞳は連れて行ってと訴えているのに…
着飾った彼女は俺なんかには勿体無いくらい輝いていて一瞬迷う。
共に行けば不幸にしてしまう…と。
それでも、諦めきれない。
「…リナ…俺は、」
触れた手は熱い。
彼女の振るえる唇が動いた。『愛してる…』と。
涙が頬を伝う。
耐え切れずに引き寄せ抱きしめた。
「愛してる。」
腕の中で彼女の肩が跳ね、ハッと顔を上げるその頬に手を添えて口付けた。
ずっと傍にいる…。
何があっても守ってみせる。そう心に誓った。
夢みたいだった。
本当に…飴の包み紙の一言だけでも幸せだったと言うのに。
目の前に彼がいた。
ここは危険なのに…それでもあたしを迎えに来たと言ってくれる。
「…ガウリイ…」
一緒にここを出よう。
見上げた青い瞳にあたしが映る。
屈み込んだ彼の額がこつんと当たる。
手はお腹に触れた。
「俺の子…」
いるんだよな、ここに。と優しく問われて頷いた。
いるよ。ここに。
「一緒に行こう…リナ。嫌だって言うなら無理矢理連れ出すからな…」
「…うん。」
「そうだ、これ返しておくよ。」
「え?」
金属の感触。
大事なものだろう?と首にかけられたのはあのペンダント。
「…持っててくれたの?」
「当たり前だろ?」
「………」
「リナ?」
「ありがと…ありがとう…」
「さぁ、行こう。」
「…うん。」
十分すぎるほど愛を貰ったのに、やっぱりそれ以上を望む自分が居て。
彼と子供が安全ならばあたしはどうなっても良いと思っていたハズなのに…。
何処か遠い土地で、あたしたちの事など誰も知らないその場所で…彼と子供と三人で…そんな夢を思い描いた。
一緒に行くわ。
そう言おうとした時だ…。
「まさかノコノコ入り込んで来るとはな…」
聞こえた声にガウリイが瞬時にあたしを後ろに庇う。
「お前…」
「言っただろ…次に会うときは殺すと。」
芝生の庭を大股に近づいて来たそれが銃を抜いた。
本気だ。
「ガウリイ、駄目…」
「リナは下がってろ。」
しがみ付いた腕は振りほどかれる。
睨みあう二人…すぐにでも銃を撃ちそうなヴァルに恐怖が募る。
この人を、失いたくない。
「…目障りなんだよ、消えろ。」
銃口が真っ直ぐに彼を捉えた。
「嫌っ!!!!」
リナの悲鳴と銃声。
目の前で、ゆっくりと倒れるのは俺ではなくて…
「リナっ!?」
傾く体を抱きとめる。
力が入らず、ずるずると崩れ落ちるそれ。
背に回した手にべったりと生暖かいものが触れ…それは押さえても押さえても溢れ出てくる。
「リナ、リナっ!ダメだ、こんなの…」
「…がう、り」
服を掴む小さな手。
俺を見上げて微笑んだ。
泣かないでよ…と。
「ダメだ、逝くな…逝かないでくれ…」
「どこにも…い、かない…一緒、ね?」
「あぁ。あぁ…ずっと一緒だ。」
うれしいと微かな声と共に腕にかかる重みが増した。
それっきり動かなくなる身体。
頬に触れるとまだぬくもりはあるのに息をしていない。
胸に耳を寄せても鼓動は聞こえない。
「…俺の所為じゃない…その女が…」
顔を上げると呆然と俺達を見下ろすそれの青い顔。
微かに銃を握った手が震えていた。
リナを殺した男。
でも何故だろう…怒りは沸いて来ない。
何の感情も出てこない。
視線を再び彼女に戻したが…大切な存在を二つも同時に失ったと言うのに俺の瞳からは涙すら流れない。
血に濡れた手で彼女の髪を梳く。
お腹のふくらみにも触れた。
ただただ無言で繰り返す。
数秒が何時間にも感じられた。
それでも、目の前に現れた黒い絵の具を塗りたくったような闇そのものの気配に顔を上げた。
「何の騒ぎかと思って来てみれば…」
チッと舌打ち。
赤い髪。燃える様に赤く…どこまでも冷たい瞳がリナを見下ろしていた。
「…が、ガーヴ様…これには訳が…」
震える声。
それもそのはずだ…この男が纏う雰囲気は尋常ではない。
地獄の炎…そんなモノがあるのならきっとこんな感じなんだろう。
「銃を寄越せ。」
「ガーヴ様…」
「さっさとしろ。ヴァル」
かちかちと震える手から銃を受け取るのをじっと見ていた。
銃口が真っ直ぐに向けられる。
そこに恐怖は無かった。
「…何、笑ってやがる…」
「………。」
低い声に俺が答えることは無く…ただ乾いた音が庭に響いた。
―――ずっと…一緒だ―――
END
「………。」
「………。」
という内容でショートムービーの方を撮影していこうと思うんですが如何でしょう!!
と身を乗り出すようにしている脚本家。
リナの新曲PV撮影の休憩中に電話帳並みの台本を持って現れたのはかれこれ2時間ほど前。
取りあえず読んでくれ!と言われてリ二人で読み進めて…今に至るのだ。
ちらりと隣をみると、半分呆れた顔でぺらぺらとページを捲ったり戻したりしている彼女。
「LINAさん!如何でしょうか!!僕の自信作なんですよ!!」
興奮気味の若い脚本家の頬はばら色に染まっている。
しかしリナは、『どうって言われてもねぇ…』と俺を見た。
脚本的には結構良いと思うのだが…リナはそうではないらしい。
「ねぇ、この脚本…あたしやガブリエフさん何故本名なの?」
「あぁ、それは俺も思った。」
そう聞くと、脚本家の彼はニコニコとその方がリアルなモノが撮れると思って!と笑う。
リアル…か。と頷く俺と、更に苦い顔をする彼女。
はふ…と小さく溜め息をつく。
「ってことは…このガーヴとか、ヴァルとか、ゼルガディスって…」
「もちろん本名ですよ!」
「………。」
「本人に本名で出演してもらうんです!そのほうが話題性が出て良いと思うんです!!」
リナが頭を抱える。
尚も興奮状態で、お二人のPV撮影を見ていたらどんどん妄想…いやいや、ショートムービーのイメージが沸いてきて!!
と自分の思い描く映画内容について語るそれ。
しかし…
「却下。」
とリナの冷たい一言に脚本家は凍りついた。
一拍置いた後ガタンと椅子を鳴らし何故ですかっ!?と立ち上がる。
「何故って…これが低予算のショートムビーだって解ってる?」
「もちろんですよ!」
「ガブリエフさんは友情出演ということでほぼ無料でPVにしろ出てくれてますけど…」
「はい。」
「この台本通りの人に出演依頼したら…一体いくらギャラを払えば良いと思ってるのよっ!!!」
バンバン!と電話帳並みの台本を叩くリナ。
しかも、そんな分厚い台本が合計4冊もあるのだ。
…3時間の超大作でも撮るつもりだろうか…
「そ、それは…」
「ガーヴって言えば、大御所中の大御所だし。ヴァルもスタントもこなす有力新人だし!ゼルガディスだって元モデルの高学歴俳優で超有名だし!!」
そんな凄い人ばっかり…無理に決まってるでしょ!
全員のスケジュール合わせられるわけ無いじゃない!
そもそもタダ働き同然で出演してくれなんて無理無理!!
と一気に捲くし立てる彼女。
現実的に考えれば無理な話だろう。
がっくりと項垂れる脚本家とリナを交互に見て、『なぁ…』と口を挟んだ。
壁際でルークが嫌そうな顔をする。
だがこの際それは見なかったことにしよう…うん。
「なんですか?ガブリエフさん?」
仕事場では他人行儀な彼女。
それに慣れるなんてことは無いだろう…名前でなく苗字で呼ばれるのはすこし寂しい。
そんな事を思いながらニコリと笑う。
仕事用のスマイルに一瞬彼女の眉がピクリと動いた。
「ゼルガディスなら知り合いだし頼んでやっても良いぞ。」
そう言うと、ぱっと輝く脚本家の顔。
そして…嫌そうに歪められるリナと、ルークの顔。
二人の目の奥は笑っていない。『この馬鹿!?』と如実に現れている。
更に続けた。
「ガーヴさんも前に映画で一度一緒になったから…聞くだけ聞いてみても…」
「ありがとうございます!ガウリイさんっ!!」
感動で涙目のそれにがしっと手を掴まれる。
だがしかし…等のリナは納得してないようで…『ちょっと待って!!』と声を上げた。
立ち上がり、そして台本をバシバシ叩く。
「仮に、仮によ!?OKが貰えたとしても…この台本は却下だからね!!」
「え、何でですかLINAさん!?」
「当たり前でしょ!?映画って言ってもライブで上映するだけの低予算短編だし!」
何時間の映画撮るつもりなのよ!?
と叫ぶ彼女の頬が真っ赤になっているのを見て俺は首をかしげた。
「…もしかして…」
「何ですか!?」
「…内容に照れてる?」
見上げていると益々染まっていく頬。
思わずふにゃりとなりそうになる顔をなんとか整えて答えを待つ。
俺と、そして脚本家に見つめられ…リナはキレた。
「うっさいわよ!!兎に角この台本は却下って言ったら却下なの!!」
さっさとPV撮影に戻るわよ!
と1人息巻いて行ってしまう。
その後姿を眺めくすくすと笑う。
同じくリナの背を眺めていたそれが残念そうに呟いた。
「いい作品になると思うんですけど…やっぱりダメですかね…そうですよね…キャスト自体に無理がありますよね…」
その方をぽんぽんと叩きながら立ち上がる。
そろそろ撮影再開だ。
「まぁ、キャストの方は俺がなんとかしてみるから…台本もう少し短めにしてみてくれないか?」
「え?」
「絶対良い作品になるしな。それに…照れてるだけだろうし。」
「照れですか?」
「露出的なシーンが多いだろ?」
「…あぁ。わかりました。じゃぁもう少し改良してみます。」
「そうしてくれ。キャストが決まってしまえば…彼女だって嫌とは言えないさ。」
にやりと二人で笑った。
「あと、それと…」
「何でしょう?」
「ラストだけどな…ハッピーエンドにならないか?PVみたいに。」
本来の歌の歌詞からすればこのエンディングも有りなのだが…どうにも悲劇ってのは好きじゃない。
もちろんリナとの悲劇はお断りだ。
脚本家はそうですねぇ…と唸りつつそれも考えてみますと早速ノートパソコンを開いた。
「宜しく。」
と笑顔で撮影に戻る。
もう諦めたのか…ルークが盛大に溜め息を漏らしたのが見えた。
Fin
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