朝の森を走る。
いつもより遅い時間だが日課にしているので休むわけにはいかない。
東に広がる滅びの砂漠から、北の断崖、西の湿地、南の海岸線までが縄張りなのだ。
その縄張り内には何十もの村や町があり、数え切れないほどの人間が住んでいる。
「………」
人間と言えば…今朝は驚いた。
良いにおいと、お肉は少ないけれど柔らかな身体が気持ち良くてくっついて寝ていたのだが…まさかあの柳のようなしなやかな手で殴られるとは。
何が気に入らなかったのだろうか?
娘の瑞々しい肌を傷付けないように着せた絹の衣がダメだったのか…それとも山鳥の羽毛を敷き詰めた寝床がダメだったのか…
言葉が通じないとはもどかしい事だ。
必要最低限の単語しか知らないから、娘の早口には対応できない。
宥めるのに本当に苦労した。
「………」
そう言えば、また一つ発見があった。
人間の娘は、怒ると髪が伸びる。
夜色の短い髪は、栗色の長いふあふあになった。
着せた絹の衣みたいにキラキラしていた。
ゴクリと唾を飲み込む。
益々自分好みに美味しそうになったそれを早く食べたい。
後は、膨らみかけの胸のお肉が大きくなるのを待つばかり。
今度は桃になる前に急いで食べなくては…
「………」
それも勿体ないな。
味わって食べたいのに。
森を駆け回り、あちこちに魔法のマーキングをして、朝のパトロールは終わる。
魔物の縄張りは、常に別の魔物に狙われているから、一日だって休むわけにはいかない。
魔力の大きさに比例して縄張りも広いから、1日2回の見回りだけで半日使ってしまう。
風のように駆ける足をもってしてもそれなのだ。
休めば衰えたと判断されて攻め入られる隙を作ってしまうし、人間はひ弱だから守ってやらないと。
そのかわりに30年に1度、ご馳走を貰うのだ。
城に向かって走りながら、思い出したように脚を止めた。
そう言えば、娘をくれた町にまだ潤いを与えていない。
「………」
元来た道を戻って、森の石台にガラスの小瓶と種を置く。
土を蘇らせる魔法の水は、たった一滴で町中に広がる。
魔法の種は病気に強く、実りも多い。
人間が食べない部分を家畜に与えれば、たくさん子供を生むだろう。
そんな品々を用意している時だった。
微かに気配と物音がして…人間が現われた。
「…っ、ま、魔物!?」
息を呑む声。
丈夫そうな服に、沢山の荷物を括り付けられた馬。
馬が鼻を鳴らした。『我らは、これから町を出るのです』と。
固まってしまっている人間は目を見開いて自分を見ている。
夜色の短い髪。
小さくて柔らかそう。
特に胸のお肉など特盛りだ。
「………」
だが、においがいけない。
既に人間の雄が手を付けているのがわかる。
ひくひくと鼻を動かすが、やはり城にいる娘の方が甘くて素敵なにおいがする。
そう言えば、目の前の娘は…今朝怒る前の娘に似ている。
きっとこの人間は、まだ怒ったことが無いのだろう…だから髪がふあふあで長くないのだ。
魔物はすぐに目の前の娘に興味を無くし、背を向けた。
「…あ…待って!!」
しかし、人間の娘が何ごとか叫んで追いかけてくる。
連れていた馬が『お待ちください。森の王』と鼻を鳴らした。
仕方なく振り替えると息を切らせた娘が早口で何か言っている。
聞き取れなくて困っていると馬が通訳してくれた。
『昨夜の生け贄の娘を返して下さい。と言っています。』
「か、えす?」
くぐもった声に娘がぶんぶん首を縦に振る。
そしてまた早口にまくし立てる。
再び馬が教えてくれた。
『大事な友達なのです。姉妹のように育った…世界でたった1人の人なんです。だからリナを返して下さい。と言っています。』
「り、な…か…えす?」
娘は涙を浮かべ、何度も何度も頷いた。
返す…返すと言う事は手放すと言う事。
あんな良いにおいのする小さくて柔らかな娘を食べずに返す?
無理だ。
そんなことは出来ない。
人の言葉を話すのには不向きな口で、知っている単語だけ告げる。
―――無理、柔らかい、娘、食べる、返さない。―――
「た、べる…?」
震えた声に頷く。
食べる。時が来たらあの柔らかな胸の肉をかみ締めるのだ。
想像しただけでお腹が鳴った。
とうとう人間の娘は泣き出してその場に蹲ってしまった。
すると馬が遠慮がちにまた口をひらいた。
『森の王。我らが王よ…どうしてもリナを食べておしまいに?』
当然だ。
あんなに美味しそうな娘を食べないわけがない。
しかし、先ほどから知らない言葉が出てくる。
馬の言葉なら全て知っているのに、一つだけ…
“りな”とは何だ?
すると馬は誇らしげに声を上げた。
『“リナ”は王が食べてしまおうとお考えの娘の名。私に名を付けてくれた人にございます。』
馬に名を与えた?
上機嫌で尻尾を振った馬は、何かを思い出すように大きな黒い瞳を細める。
そしてうっとりと言葉を紡いだ。
『リナにブラッシングされるのは、なんと気持ちがよいことか!!優しく背を撫でられた時の胸の高鳴り。耳の後ろから、たてがみにかけて触れられた時は…種族は違えど恋に落ちましたとも。』
聞いていてイライラしてきた魔物は、低く吠えた。
泣いていた娘が縮み上がるほどの声。
しかし馬は怯まず続ける。
リナの歌の素晴らしさを。
彼女が世界中の物語を語ると、まるで魔法のようにその情景が浮かぶ事を…
「………っ!!」
魔物のイライラは頂点に達し…その日、森の半分が燃え上がった。
命からがら、背によじ登り…それっきり気を失ってしまった主人を乗せて馬は燃え上がる森に背を向ける。
石台に置かれたガラスの小瓶と種は、餞別変わりにちゃっかり持ってきた。
これくらいして当然だと低く鳴く。
大事な名付け親であり、愛した人間…家族を奪われたのだから当然だ。
あの町の人間が困ろうと…そんなことは知った事じゃない。
もう1人の大事な娘は背中の上で眠っている。
一足早く町を出て、この娘を待つ男の元に連れて行ってやらねば…
馬は、娘二人が大好きだったのだ。
さっきの話を聞いて、森の王がリナを食べるのは勿体ない事だと思ってくれれば良い…そう願った。
一方その頃…魔物は炎を吹いて暴れていた。
「!!!」
悔しい。悔しい。悔しい!!
何が悔しいのか、何にイライラしているのか分からないが…とにかく暴れた。
散々暴れ、辺りが焼け野原になったころ…
娘の匂いが恋しくなって、尻尾を垂らしトボトボと城に帰った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
今朝のアレは軽率だった。
自分の置かれた状況を冷静に判断するより先に手が出てしまった。
散々怒鳴り散らして、手近にあったクッションを投げ付けて…我に帰ったのは、黒髪の鬘がポロリと落ちた時だ。
ベッドから離れた場所で低く唸っていた魔物が一歩一歩近付いて不思議そうに膝に落ちた鬘の匂いを嗅いでいた。
正直『バレた』と焦ったが…魔物は不意に立ち上がり、リナの手を取ると何処かに誘うように引っ張った。
丸まった背中。
不格好に二本足で歩こうとするそれに連れられて…部屋を出て、階段を下り…食堂に入ってびっくりした。
お皿が宙を舞い、料理が目の前に並べられて行く。
どれもこれもシンプルな味付けのものばかりだが美味しそうだった。
空腹には勝てなくてパクパクと食べ始めると、魔物は嬉しそうにリナに鼻先をすり付け…そして外に出て行った。
なんとなく、桃の木に水をやっていた…変な魔物の夢を思い出した。
昼を過ぎた頃、魔物は戻って来た。
リナは芝生の庭で空を眺めていた所だ。
ホント言うと逃げ出そうと散々試みて…そのことごとくが不発に終わり疲れて座っていたに過ぎないのだが…
「………」
魔物は真直ぐにリナに近づいてくる。
四本足で歩く姿は野生の狼のよう。
二本足で不格好に歩いていた今朝の面影は無く…獣の目が自分を見つめる。
「…ぁ」
とうとう食われるんだと覚悟して固く目を閉じた次の瞬間…
「…へ?」
目を開けると、甘える子犬みたいに鼻先をお腹に押しつけている魔物。
良く見れば随分疲れている様子。
金色の毛も、少し焦げて先がちりちりしている。
リナは恐る恐る手を伸ばし触れてみた。
魔物の毛並みは思ったほど堅く無く、柔らかくて気持ちがいい。
獣独特の匂いは無くて、爽やかな風が運んでくる森の匂いがした。
不思議な気持ちで耳の後ろをかいてやると尻尾が揺れ、手足から力が抜けたのかゴロリと横になり…今朝みたいに顎と前脚を片方、リナの膝に乗せて目を閉じてしまった。
「…えーっと…取りあえず食べられる心配は無いってことかしら…」
困ったようにつぶやいてみたが魔物は答えない。
言葉はあまり通じていないようだとリナは理解した。
魔物とは果てしなく獣に近いのだと。
長い毛を梳くように撫でていると気持ち良さそうにまた魔物が唸った。
「り、な…」
「えっ?」
くぐもった声は確かに名前を呼んだ。
もう一度確かめようと耳を澄ませたが…最早寝息しか聞こえてこなかった…
To be continued...
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