「社長、お時間です。」
銀髪を纏め上げ、シックな色のスーツに身を包み分厚い手帳を手にして秘書が入ってきた。
びっしりと書き込まれた分刻みのスケジュール。
その一部がぽっかりと開いていた。
切り取られたように真白なその時間帯は彼にとって、最も重要な時間なのだ。
「あぁ。すぐに行く…」
手にしたペンを置き立ち上がるとスーツの皺を直す。
そして秘書を従え彼はいつもの場所へ足をむけた。
「…ちょ、まって…」
「駄目だ。」
静かに手を伸ばす。
いやいやと首を振りなんとか阻もうとするそれに残酷な笑みを向ける。
涙を浮かべた瞳が、助けを求めるように彼の後ろへ向けられたが…秘書は表情を変えることなくただ控えているだけ。
「あっ…」
悔しさに赤く染まる頬。
終わりだ。と宣言すると彼はそれをそっと持ち上げ口付けた。
「…チェックメイト。」
しばしの沈黙。
「……なんで…」
「どうした?」
「なんでこの!あたしが負けるのよーーーーー!!!」
相当悔しいのかじたばたとテーブルの下で足をばたつかせて彼女が叫ぶ。
はははと笑いながら、初めて勝った。とご機嫌の男。
お昼の恒例行事になりつつある、彼女と彼のチェス対決。
といっても、今日まで彼女の圧勝で勝負にもなっていなかたのだが…
「嘘よ!詐欺よ!!あんた今までチェス下手なフリしてたわね!?」
涙目で訴えた言葉は、彼ではなくその後ろの秘書によって否定された。
『社長は、チェスはど素人です。』と。
「じゃぁなんで…なんで…」
「んーほら、やっぱり賭けるモノが違うと燃えるというか…」
今までは、昼食代をかけてチェス1本勝負をしていたのだ。
社員食堂で。
彼女はこの会社で働くOL。
そして彼はこの会社の社長。
元々は彼の秘書が彼女と昼休みにチェスをしていたのだが、今では何故か彼と彼女の勝負へと変わっていた。
「…おかしいわ、絶対変よ!…惨敗なんてあり得ない。」
「リナさん。諦めてください。」
「ミリーナまで酷いわっ!」
うぅ…っと潤む瞳。
しかし、冷静な彼女は『嘘泣きは通じませんよ。』と微笑む。
負けは、負けだぞ。とご機嫌な社長。
「…わかった、わかったわよ!負けよ。認めるわよっ!」
ガタンと勢いよく立ち上がったリナはビシッと彼を指差し『次は負けないんだから!!覚えてなさいっ!』
と、言い捨てその場を去ろうとした。
だが、そう簡単に逃げることは無理だったようで…手首を捕まれる。
「な、なによ…」
「リナ、まだ約束のものを貰ってないんだが?」
「う゛…」
有耶無耶にしようたってそうは行かないぞ?と微笑む。
ちらりと周りを見渡して彼女の頬が更に赤く染まる。
社員食堂なわけだから人が沢山いるわけで…
「こ、ここじゃなきゃ駄目?」
「別に、人目が気になるなら他の場所でも良いけどな…でもそしたら…」
ぐいっと腕を引かれ耳元で彼女にだけ聞こえる声で呟いた。
キスだけじゃ終らないぞ?と。
「…なっ!?」
「どうする?」
にっこり笑った彼を睨みつけていた彼女だが、観念したのか小さく息を漏らした。
「わかったわよ…そのかわり頬っぺだからね…」
「あぁ。」
今回は彼女が負けたらキスを、彼が負けたらいつもどおり昼食代を出すという賭けだったのだ。
いつもは、お互いの昼食代を賭けていたのだが…急に彼が、賭けの内容を変えてもいいか?と言い出した。
これまで圧勝を誇っていた彼女は、アッサリとそれを飲んだ。
そして、負けてしまったのだ…
「目閉じててよ…」
「あぁ。」
さっさと終らせようと頬に唇を近づけたそのタイミングを見計らって、顔を彼女へと向ける。
「っ!?」
目を見開いて、反射的に飛び退いたその顔を満足そうに眺め彼は席を立つ。
まだ口元を押さえて真っ赤になっているソレに『ご馳走様♪』と告げて食堂を後にした。
「…ぁ…」
明日は負けないんだからーーー!と彼女の叫びが響き渡った。
Fin
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